
KAAT神奈川芸術劇場<大スタジオ>
無事に全日程が終演いたしました。
ご観劇いただきました皆様。心より感謝申し上げます。
今回、私の所属劇団である820製作所は、20世紀の哲学者「ハンナ・アーレント」を主軸とした作品創作に挑みました。
自身の役は、若き哲学の王、マルティン・ハイデガー。
…の、死後の存在です。
さて、今回は30分凝縮版ということで、長編創作に携わる可能性に備え、忘備録として記憶を残しておきたいと思います。主観混じります。
ハイデガーを知れば知るほど、知識や真理で武装したことによる、彼の孤独が見えてきました。
ハイデガーは一生をかけて「存在とは何か?」を問い続けました。
しかし、その過程で、目の前の人間や社会的な責任(ナチスへの加担など)を「取るに足らないこと」として軽視してしまいました。彼は「真理」という高い山ばかりを見ていて、目の前の「愛」に気が付かなかった。…いえ、ただ、見て見ぬふりをしていたのかもしれません。もう、戻ることはできなかったのかも知れません。
物語は、生前と死後が描かれますが、生前の傲慢に見える態度…ハイデガーの建前の姿とでも言いましょうか(本人にとっては本心で生きているつもり)。それが、「人間は死に向かう存在であり、死を自覚してこそ自分らしく生きられる」というハイデガーの哲学の柱が、死後の世界では自分の哲学の唯一の拠り所であった「死」というカードを失い、自分を特別な存在に見せるための「孤独な決意」が通用しません。初めて、建前が通用しなくなり、鎧のない裸となったハイデガーは、ハンナを前に、「離れたくなかった。君が生きる意味を与えてくれた」と、ついに本心を吐露することになる…。
ハイデガーが「哲学は砲弾を止められない」と絶望したように、確かに物語や思想には、今この瞬間もどこかで起きている「砲撃」を止める物理的な力はないのかもしれません。しかし、ハンナが「悲しみは、物語りにすることで初めて耐えられるものになる」と語ったように、私たちは「物語」を通して、他者の痛みに触れ、自分以外の誰かが生きる「意味」を想像することができる。
私ごとですが、最近のニュース等を受けて、「事実は小説よりも奇なり」という言葉が頭にずっと鳴り響いていました。そして、自身が演劇の道を選んだことに強い後悔を抱き、精神的に不安定になり、虚構を生み出すことに何の意味があるのかと感じつつも、表現の場に赴いていました。しかし、ハイデガーやハンナを知り、このような時だからこそ、演じ、語らなければならない。そして演じるならば、事実を超えるレベルの虚構。虚構を真実にするレベルの表現を生み出すことに覚悟を持って向き合わなければなければならない。そんなことを思う期間になりました。
すっかり演じることから遠ざかろうとしていた自分でしたが、今更ながら、ようやく表現という行為のスタートの場所に気がつけたのかも知れません。
今回は以上です。
改めまして、ご観劇いただきました皆様。心より感謝申し上げます。
また、お会いいたしましょう。それでは。。



